越後長岡の雄  河井継之助 記念館に行ってきました。

雑記
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江戸末期から明治の時代の越後長岡の河井継之助 記念館に行ってきました。

明治維新の時代の本が好きで、司馬遼太郎先生や秋山香乃さんの本を読みふけっていた頃がありました。最初は秋山香乃さんの歳三往きてまたで、会津が政府軍に攻められた頃越後の河井継之助が政府軍と戦う他藩の人にとっても期待の人物であったにもかかわらずなかなか立たず、結局戦う事になって奮戦するも亡くなってしまう。それくらいのことしか知識がなかったのですが、司馬遼太郎先生の峠 最後の侍 という本に出会って河井継之助のことを少し知ることができました。その後役所広司主演で映画化されたりして映画も見ました。太平の江戸時代が終わり戦乱の時代の中で自分の信念を貫いて叶わず亡くなった越後長岡の雄に触れてきました。

河井継之助はこんな人

河井継之助は1827年1月1日に長岡藩に生まれました。子供の頃はかなりやんちゃだったそうです。佐久間象山のもとで蘭学や法学を学ぶほか、諸国を遊学して長岡藩に戻り奉行として藩政改革に取り組みます。41歳のときに戊辰戦争が起こり「非戦中立」の立場を明らかにして新政府軍に訴えますが聞き入れず、戦うことになり敗北しなくなります。河井継之助のすごいところは、当時の最新兵器であったガトリング砲をいち早く購入し軍備を整えていきます。兵力を持った上で中立を訴えたのです。このガトリング砲が新政府にすでに攻められていた他藩の人にとって希望にもなったのですが戦争に巻き込まれ奮闘するも敗北してしまいます。

ガトリング砲は戦争回避の抑止力 現在では当たり前に言われる戦わないための抑止力という考え方を当時から持っていた人物。

現在では核兵器を持って抑止力とするという考え方が当たり前になっていますが、明治の時代に最新兵器であるガトリング砲を持って抑止力としようとた、そして戦争を回避して藩の民の命を守ろうとした人物だと思います。その思いは今も長岡の人に受け継がれているように思いました。

記念館はきれいに保たれており、職員の方の丁寧な対応にこちらも背筋がピンとなる感じでした。記念館に来られた方の中に秋山香乃さんもおられました。

力を持たず平和だけを訴えるのではなく、力を持って中立を貫こうとするのは信念のいることですが、それでも攻められれば結局戦う以外にない。その時力がなければただやられるだけです。いまの政界における日本の状況とよく似ていると思いますが、河井継之助ほどの信念を持って日本を考えてくれる政治家が出てくること願います。

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